300をまた見返した。
やっぱおもしろい。
教育的見地とか生産性で言えばこの映画がどれだけ社会に寄与したのか不明だが、
「もうひたっすらにマッチョが殺しあう映画を作りたかったんだよコノヤロー」的な潔さは買えるし、
そのシンプルさをエンターテイメントに昇華させるだけの映像技術があるのがよい。
最初見たときの感想はいろいろ言ったが、
考えてみればラストで王が殉職するシーンこそこの映画の最大の燃えなんである。
というか期待通り大往生するレオニダス王萌え。
あと、あらすじをどんだけしゃべりまくってもネタバレにならない素晴らしさ。
というわけで容赦なくネタをばらします。
大まかなあらすじを辿るとこうなる。
→とある映画製作陣の妄想内に(注・決して史実ではない)に『スパルタ』というとんでもねー集団がいた。
史実のスパルタと区別するため『』をつけておく。
→『スパルタ』の教育サイクルはつまるところ虎眼流である。
つまり、使えない種ぇは即刻デリートされ、生き残ったキ○ガイだけが次のキ○ガイを育てるというわけである。
→強い相手とは戦わないという動物的野生に基づく良識派、常識派は評議員になって生き残れる。
ただしここはあくまで妄想世界の『スパルタ』なので、戦争に反対すると死ぬ。っていうか殺される。
→そんなキ○ガイの国にも大国の影が忍び寄る。『ペルシャ』(注・無論これも妄想ワールド内の大国である)の登場である。
性格かなり悪い。
→だがここでいくら文句を言ってもしょうがない。製作陣はイラン人たちを馬鹿にしたいわけではないのだ。
仮にスパルタを攻めたのが日本人の始祖だったとしても、諸兄が怒るのは妥当ではない。
→なぜなら、こいつらは基本的に『スパルタ人』というキ○ガイが喧嘩をするのを見たいという
中学生じみた劣情を具現化するための口実に過ぎないわけで、
真面目な考証はするだけ馬鹿らしいからである。『スパルタ』『ペルシャ』は史実のスパルタとペルシャではないのだ。
→つまりこれは「スタローンとジャン・クロード・バンダムはどっちが強い?レベル」(byディオ・ブランドー)の
妄想ワールドのファンタジー戦記なんだと早めに気付いたほうがいい。
→というわけで『スパルタ』王、レオニダス(←主人公)の元にペルシャの使者が来る。
→「しゃぶれよ」「しゃぶれだァ? コノヤロウ、てめぇがしゃぶれよ!」的なやり取りを経て、
使者は用途不明のでかい穴にぶち込まれて死ぬ。つか、なによこの穴。
→この間、レオニダス王が隷従か戦争かしばらく思い悩むシーンがあるが、実は何も考えていないに決まっている。
つまり、これは時間がかかった脊椎反射であり、最初から「よろしいならば戦争だ」になることは火を見るより明らかなのだ。
→議会や神官にも反対されながらレオニダスは300人のマッチョを選んでペルシャとの戦争に赴く。
ここはパンツいっちょという点がポイントである。
→史実はどーでもいい。まちがいなく作ったやつらの妄想では『スパルタ』=半裸のガチムチ兄貴 だったに違いない。
→この間、国に残った王妃は自分のナイスバデーをも駆使した議会懐柔に奔走する。
が、比較的どーでもいいところなのでここでは書かない。
→海辺には今にも『スパルタ』を征服せんとするペルシャのNice boat.達が迫っていた。
圧倒的なペルシャ軍を前に不敵にニヤつくキ○ガイスパルタン達。
こんなところで、シグルイの「笑うという行為は本来攻撃的なものであり獣が牙をむく行為が原点である」が映像化されるとは。
→さっそく戦闘開始。百万対300の喧嘩の始まりである。BASARAとか無双みたいなバトルスタート。
→「谷底で戦えば大勢を相手にせずにすむから」「先頭を殺せば後方部隊は萎縮するから」
など、もっともなアリバイを作ってスパルタンの戦術を演出したいらしいが、
見てるほうからすれば製作者達のキ○ガイ最強論がバレバレなので意味はない。
→ペルシャは多国籍軍なのでいろいろな国の軍隊がやってくるが、
背中に二刀流というどーみてもニンジャな人たちまで登場してしまった。
剣と盾のファンタジーが行き着く最終妄想、ジャパニーズニンジャ!
→当然スパルタ人圧勝です。あと、この辺からどう見ても人間じゃないやつも出てきます。
→ペルシャ王は黒目が多くてきもい
→それからサイとかゾウとか爆弾とかいろいろでてきますがでもそんなの関係ねぇ。スパルタ人のほうが強い。
なぜなら、スパルタ人は最強だからである。(詭弁)
→あと、なんだかんだあって300人が壮絶に討ち死にする。
→完
→「正確な考証に基づいた歴史ロマン」「一人の王を描ききった大河映画」
などという期待を持っていた視聴者をシカトするかのようにエンドクレジット開始。
→結論、作ったやつらはキ○ガイが描ければそれでよかった。つまりシグルイとベルセルクを足して二で割った妄想である。
→そしてこれで「ここまでわかったんなら映画見る必要ねーじゃん」などと思ってるあなたは甘い!
この映画においてストーリーがいかににおまけにすぎないか、それを目撃することに価値があるんです!
やっぱおもしろい。
教育的見地とか生産性で言えばこの映画がどれだけ社会に寄与したのか不明だが、
「もうひたっすらにマッチョが殺しあう映画を作りたかったんだよコノヤロー」的な潔さは買えるし、
そのシンプルさをエンターテイメントに昇華させるだけの映像技術があるのがよい。
最初見たときの感想はいろいろ言ったが、
考えてみればラストで王が殉職するシーンこそこの映画の最大の燃えなんである。
というか期待通り大往生するレオニダス王萌え。
あと、あらすじをどんだけしゃべりまくってもネタバレにならない素晴らしさ。
というわけで容赦なくネタをばらします。
大まかなあらすじを辿るとこうなる。
→とある映画製作陣の妄想内に(注・決して史実ではない)に『スパルタ』というとんでもねー集団がいた。
史実のスパルタと区別するため『』をつけておく。
→『スパルタ』の教育サイクルはつまるところ虎眼流である。
つまり、使えない種ぇは即刻デリートされ、生き残ったキ○ガイだけが次のキ○ガイを育てるというわけである。
→強い相手とは戦わないという動物的野生に基づく良識派、常識派は評議員になって生き残れる。
ただしここはあくまで妄想世界の『スパルタ』なので、戦争に反対すると死ぬ。っていうか殺される。
→そんなキ○ガイの国にも大国の影が忍び寄る。『ペルシャ』(注・無論これも妄想ワールド内の大国である)の登場である。
性格かなり悪い。
→だがここでいくら文句を言ってもしょうがない。製作陣はイラン人たちを馬鹿にしたいわけではないのだ。
仮にスパルタを攻めたのが日本人の始祖だったとしても、諸兄が怒るのは妥当ではない。
→なぜなら、こいつらは基本的に『スパルタ人』というキ○ガイが喧嘩をするのを見たいという
中学生じみた劣情を具現化するための口実に過ぎないわけで、
真面目な考証はするだけ馬鹿らしいからである。『スパルタ』『ペルシャ』は史実のスパルタとペルシャではないのだ。
→つまりこれは「スタローンとジャン・クロード・バンダムはどっちが強い?レベル」(byディオ・ブランドー)の
妄想ワールドのファンタジー戦記なんだと早めに気付いたほうがいい。
→というわけで『スパルタ』王、レオニダス(←主人公)の元にペルシャの使者が来る。
→「しゃぶれよ」「しゃぶれだァ? コノヤロウ、てめぇがしゃぶれよ!」的なやり取りを経て、
使者は用途不明のでかい穴にぶち込まれて死ぬ。つか、なによこの穴。
→この間、レオニダス王が隷従か戦争かしばらく思い悩むシーンがあるが、実は何も考えていないに決まっている。
つまり、これは時間がかかった脊椎反射であり、最初から「よろしいならば戦争だ」になることは火を見るより明らかなのだ。
→議会や神官にも反対されながらレオニダスは300人のマッチョを選んでペルシャとの戦争に赴く。
ここはパンツいっちょという点がポイントである。
→史実はどーでもいい。まちがいなく作ったやつらの妄想では『スパルタ』=半裸のガチムチ兄貴 だったに違いない。
→この間、国に残った王妃は自分のナイスバデーをも駆使した議会懐柔に奔走する。
が、比較的どーでもいいところなのでここでは書かない。
→海辺には今にも『スパルタ』を征服せんとするペルシャのNice boat.達が迫っていた。
圧倒的なペルシャ軍を前に不敵にニヤつくキ○ガイスパルタン達。
こんなところで、シグルイの「笑うという行為は本来攻撃的なものであり獣が牙をむく行為が原点である」が映像化されるとは。
→さっそく戦闘開始。百万対300の喧嘩の始まりである。BASARAとか無双みたいなバトルスタート。
→「谷底で戦えば大勢を相手にせずにすむから」「先頭を殺せば後方部隊は萎縮するから」
など、もっともなアリバイを作ってスパルタンの戦術を演出したいらしいが、
見てるほうからすれば製作者達のキ○ガイ最強論がバレバレなので意味はない。
→ペルシャは多国籍軍なのでいろいろな国の軍隊がやってくるが、
背中に二刀流というどーみてもニンジャな人たちまで登場してしまった。
剣と盾のファンタジーが行き着く最終妄想、ジャパニーズニンジャ!
→当然スパルタ人圧勝です。あと、この辺からどう見ても人間じゃないやつも出てきます。
→ペルシャ王は黒目が多くてきもい
→それからサイとかゾウとか爆弾とかいろいろでてきますがでもそんなの関係ねぇ。スパルタ人のほうが強い。
なぜなら、スパルタ人は最強だからである。(詭弁)
→あと、なんだかんだあって300人が壮絶に討ち死にする。
→完
→「正確な考証に基づいた歴史ロマン」「一人の王を描ききった大河映画」
などという期待を持っていた視聴者をシカトするかのようにエンドクレジット開始。
→結論、作ったやつらはキ○ガイが描ければそれでよかった。つまりシグルイとベルセルクを足して二で割った妄想である。
→そしてこれで「ここまでわかったんなら映画見る必要ねーじゃん」などと思ってるあなたは甘い!
この映画においてストーリーがいかににおまけにすぎないか、それを目撃することに価値があるんです!
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