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『グイン・サーガ』の栗本薫が死んだというニュースを受けてすぐさま連想したのは、われらが偉大なる三浦建太郎先生が途中でぽっくり行ってしまうという最悪のケースです。
それだけは実に最悪というか、逆に言えば生きて完結さえしてくれればたいがいの結果は享受できる(とくに『ベルセルク』)のですが、もうホントに死ぬのだけは勘弁です。

と、ここまできて思うんですが、もしかするとこうした度を超した長編を描きたがる人々の願望というのは、「人生の中で傑作を完結させる」ではなく「人生自体を作品で満たしていくこと」ではないかと思うのですよ。つまり人生の中に創作を見出したのではなくて、創作の中に人生を見出した。
たとえば夢枕獏先生なんかも、自分が生きてるうちには完結できない作品があるとかそんな無責任な台詞をのうのうとぶちかましたらしいですね(要出典)。
同様に荒木イロイコ先生も「オレは何を描いてもジョジョ」宣言まで出しちゃうし、彼はもうジョースター一家と心中する気満々なんです。
映画の世界で言うと「バカ宇宙バカ」ジョージ・ルーカスとか。

その作品に要する労力と時間は、もしかしたら人一人が一生かけて費やしても追いつかないくらいのレベルなのかもしれない。しかも彼はその作品をたった一人で仕上げたくて、自分以外の何者にも筆を共に執ることを許さない。
と、ここまでくるとやっぱ死ぬしかないんかなと思うんです。殉教者になるしかないのかなって。
でもねー、三浦先生、どうか生きてるうちにあなたの頭の中の最後の一粒まで何とか出し切って欲しい。
せめて聖典を完結させた殉教者であって欲しいのですよ。うん。
たまには「休載に乗じて xbox 購入」したっていいからさ(笑)。
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ブルーレイ版の『 FFVII AC 』観ました。内容が内容なのでブルーレイ仕様はまさに鬼に金棒です。
吹雪の一粒一粒が、水の一滴一滴が、美しい男や女たちの一人一人が、それはもう、これでもかと言わんばかりの鮮度で網膜に迫ってきます。
ですがそうした映像の美しさに感動しながらも、その感動はこの映画を始めてみたときのそれよりも遥に劣ることに安心しました。
『 AC 』の最大の美点は画面の鮮明さでもでもリアルであることでもなく、その絵柄の美しさにあります。
たとえば井上雄彦であるとか星野之宣であるとか、その辺の超 A 級画力の作家に秒間何百枚クラスの美人画を描かせてアニメする、といったことが CG なら出来る。そしてこの映画はそれを実行した。
これが「絵」じゃなくて「写真」を目指したのならあんな感動は得られなかったと思います。映像が発達した昨今、それでも絵画だの二次元イラストだのが生き残っているかというと、人間の目は全てを認識するのではなく「美しい」と思った部分を認識したがるからです。「絵に描いたような美しさ」という言葉が示す通り、人為的な美は写実的な美を凌駕しうる。だから毛穴だのシミだのそんなものをリアルにしたって意味はないわけで、フル CG なら「絵」に徹する明確なメリットがあるのです。
『 AC 』の「絵」としての創意は画面の鮮度やリアルというものに負けていなかった。ここが素晴らしい。だからこそ、ブルーレイでの感動はそうは大きくなかったんです。いや、これはほめ言葉なんですが。

と、ここまでほめておいてその一方で加筆分があまりに蛇足に過ぎる点が残念でしたね。
前半にムダなシーンを付加しすぎて原作の持っていた疾走感が失われてしまっているのが残念。
特にそれは回想シーンに多いんですが、もともとそこまで思想性の高い映画ではないので意味ありげなシーンをいくら追加しようが眠くなるだけです。どうせならバトルシーンにこそバカスカ追加すべきであって以下略。
あと、妙なサブリミナル効果とか動きまくるカメラワークもやめてください。
ティファが役立たずの巨乳から役に立つ巨乳に変わったのはいいとして、銛のおっさんの活躍を奪わないで、とか。
他にも出血シーンとかはこの作品にはそう求められているものではないと思うのですよ。基本的にはおとぎ話みたいなところあるから。
いらん台詞も付け足しすぎです。

******

あと、『ダークナイト』で興味を持った新バットマンシリーズの感想。
『バットマン ビギンズ』です。
率直に言って、『ダークナイト』の出来はまぐれ当たりの場外弾だったのかも、ということ。
『バットマン ビギンズ』は実際面白い映画でした。いわば近年流行のエピソード 1 的手法。過去を描くことでオレだけのバットマンを作っちゃうという同人的動機。それらを形にする能力をノーラン監督はちゃんと持ってるし、きちんと懇切丁寧に説明してくれる。
だがそれが退屈。ノーラン監督は一から一つ一つロジックを積み重ねていって結論に到達するタイプですよね。約 2 時間にそれだけのエピソードを几帳面に詰め込んでくれているけど、そこに疾走感や勢いはない。いわばバットマンの説明書をずっと読み聞かせられる感覚といいますか、登場人物も説明的なことをちょくちょく口にするし。
しかもノーラン監督はアクション描写が致命的に下手です。「誰が誰を攻撃しているのか」「敵は誰なのか」ってのがピンとこないからカタルシスに浸れない。これは人物相関図にしてもそうでエピソードやキャラが有機的に結びついていかないところがあるのですよ。テーマ偏重のつくりがなおさら「説明」の様相を強くしてしまっている。
上記の欠点は実は『ダークナイト』にも当てはまることなんですが、あれはジョーカーというアンチテーゼがいてくれたおかげで多分に説明的描写を省くことが出来たんです。むしろそうした上記の不器用さが「リアル」というほめ言葉にすらなってた。
というわけで 3 作目も出来るようですが(多分見に行くけど)あまり期待はしないと思います。

なんか今日愚痴ばっか。
 
ちょっと手を放した隙にシグルイもヘルシングも出ちゃってるんですよね。

とりあえず最近買った分。

******

『へうげもの』 8 巻

完全にアレですね。宗匠が死ぬ寸前。

宗匠が死に向かって徐々にギアがローからトップに入っていくあたり。

8 巻を読んで思ったのは、結局宗匠は強い人間だということです。

自分の信念が誰にも理解されずやがて廃れていくことを知りながらも、あるいは己の為そうとしていることが鬼畜の所業だとわかっても、それを全部受け入れて「死ぬ」ということも含めて自分にケリをつけられる。

つまり真のカリスマとは絶対的に孤独であり、 100% 自己決断の生き物であるということです。

で、その点秀吉は弱い人間なんですね。
どれだけ偉くなろうが結局は何らかのシンボル(信長や宗匠)にすがらざるをえない。

美学という上位のレイヤがあるとして、宗匠はたった一人でその上に乗っかっているわけです。
それは物凄く審美眼の高いフィルタでもあって、織部も秀吉もそこに憧れる事はできてもそのレイヤに乗っかることはできない。というより、宗匠ですらとてつもない自己研鑽を経ないとそのレイヤからはたやすく落っこちてしまいかねない。
美学というレイヤは時として宗匠自身および彼の命よりも上位で、そこに立つには相当の資格が必要なのです。

深いですね。カルマ。

******

『ベクター・ケースファイル』 6 巻
中華姉妹やらヤンデレ留学生やら出していきながら一向に話は膨らまず勢い付くこともない。
おそらくこの漫画を作っている人々はキャラの使い方が並列電流なんです。
だからどんだけキャラを並べようが持続力は上がってもボルテージが上昇することはない。

だが、それがいい。

『ベクター・ケースファイル』はスリルやカタルシスなんていうのは薄いほうがいい漫画で、今のような「なんちゃって萌え」当たりがちょうどいいのです。
ムシキングにもポケモンにもならず粛々と虫ウンチクだけを語り続け、幼女もヤンデレもうまく描きこなせないまま、REDあるまじき真面目な環境論が語られる。
この辺の素朴さが好きです。

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